「 共生のための技術哲学 村田純一編」を読み終ったので、感想をまとめておこうと思います。
概要
この本は村田純一先生が企画・運営に携わり2006年に開かれた本の表題と同名のワークショップの成果をまとめたものです。
ワークショップでは「ユニバーサルデザイン」の考え方をベースに、様々な方々が自らのバックグラウンドにもとづいて講演されており、本書にはその講演録を元に書き直されたり、ワークショップを受けてその後に書かれたと思われる論文が収録されています。
そのため、前の講演内容を受けて説明を行なっている論文があったり、聴衆に呼びかけたり、読み易く編集されてはいますが、いくらかライブ感の残る内容になっています。
読み終えての感想
この本の前半に大きな位置を占める「社会構成主義」については、先日ブログにまとめて投稿しました。
全体を読み終えて思ったことは、私たちの周りには人間の持つ柔軟性に頼っている、本質的に使いずらい建築物や工業製品があふれているのではないか、ということでした。
この感想を持った理由は、おそらく私自身のバックグラウンドも多少は関係していると思います。
感想のベースになっている自分のバックグラウンド
私自身の技術的なバックグランドはネットワークセキュリティであったり、Gnomeアプリケーションの改良だったりしますが、仕事としてはシステムの運用経験が大きな位置を閉めています。
その業務は基本的に誰かが作ったものを引き受ける先である性質上、設計書や手順書などのドキュメントに大きく依存していました。
どのようなドキュメントであれば短時間に、間違いを起さず、必要な作業(計画、変更、確認、etc.)が行なえるのか、常に模索していたと、いま振り返って思います。
基本的にドキュメントというのは、書き手の持つ観点に依存しています。
良く考えられた印象を受けるドキュメントは複数の観点を持って書かれたものといえるでしょう。
しかし実際には、想定されるフローから外れた事象には対応できなかったり、当たり前と思われる前提は省かれていて、その内容は、所詮、書き手の知識・経験に大きく依存し、またそれを反映しただけのものに過ぎません。
そのために落とし所として、再起動などのスタートラインの敷き直しをするわけですが、それすらも全ての事象に対応できるわけではありません。
ガバナンスだ、標準化だ、といってみたところで基本的には開発者に細やかな配慮が求められ、最終的には運用担当者のスキル、という属人的なものに依存せざるを得ない性質を持っています。
そのため部分的にアウトソースしても、観点を見えないところに追いやっているだけで、考慮されていない観点は常に、より属人的なスキルの低い、下流に流れていくのが常でした。そしてより大きな問題として表面化し、場合によっては下流で受けた担当者単独のミスとして扱われることすらあるでしょう。
運用に限らず社会的に、この見落した、配慮の欠けた観点が下流に流れていく、最終的には利用者がツケを払うという構図があると感じています。
そのために法律といった形で、より上流で行き届いた配慮を行なうことになりますが、最大公約数的な対応となり必ずしも十分な対応にはならないでしょう。
最低限守らなければいけないルールを活かすためには、本来の趣旨を考え、それに沿って行動することが必要で、そうしなければ、最低限のルールに従うという投資に対して十分な見返りを得られないというのが個人的な見解です。
経済的に考えても、どうせやるなら意味のあるものにする、ルールは守ってこそのルール、だと思います。
「ユニバーサルデザイン」の普及について
本の中では「ユニバーサルデザイン」という言葉について違う表現で語られますが、より多くの人に多様な機会・方法を提供するという捉え方がとても気に入りました。
人間は生まれてから成長を続け、やがて老いていきます。
車イスに乗るぐらいのことは多くの人が、これから体験していくでしょう。
糖尿病になり失明する人も決っして少なくありません。
そういった自分に対して、これから起り得る、様々な局面の中で使い易いものを作るだけの話しに過ぎません。
もちろん理想的な成果物はコストなどの理由で作られないわけですが、本書の中ではユニバーサルデザインの考え方を、思想・哲学・運動・教育などの言葉で修飾することで、理解度の向上、社会的な圧力が生まれ、発展してゆくだろうという展望が語られています。
より多くの人が使いやすいものを求める、自分の使っているものが使いやすいかどうか、十分快適かどうか、自分が機械に身体を合わせていないか、十分に疑ってみる必要があります。
工業製品のレベルでは経済原則によって十分にユニバーサルデザインが普及するでしょう。
ただ、それよりも規模感の大きな建造物では、コストも大きくなり少し状況が違うかもしれません。
日本の風土
個人的には日本では、みんなが頑張って「標準的な枠」に収まろうとする活動が常にあって、その枠に収まれない人を援助をするという捉え方があるように感じています。
この枠に収まらないことで自らを恥しく感じるということもあるでしょう。
身近なレベルでは、成人男性に合わせた工業製品は小柄な女性には使いづらいという事は良くあることです。
枠を変化させなければ、その延長線上で、足腰の衰えた老人は次第に枠から外れていくのだろうと想像がつきます。
ユニバーサルデザインという考え方を教育や運動によって実現していくというのは自然な意見に聞こえますが、はたしてそうでしょうか?
意思決定に関わる全ての人がこれから老いていき、関わるものをデザインしているというのに、どうしてこの視点が欠落してしまうのでしょう。
将来の老いてゆく自分のために、ユニバーサルデザインという考え方を自然に身につける機会があると考えることはできないでしょうか。
もちろんこれは個人レベルでの道徳的、倫理的な感覚に依存しています。
最初のステップで教育は重要です。
しかし、そこからは自分自身の問題として受け止めることができるかどうか、それがより大きな課題だと思います。
若い人間を非難する言葉の中に、想像力の欠如という言葉をみますが、現在老人となった世代の想像力が欠如していたために、生きずらい環境を構築してしまったという事も言葉遊びとしてはできると思います。
もちろんそこには、個人レベルの想像力と世代全体を動かす想像力の違いがあるわけですけれども。
老人世代の復権
ある時代の多数派であった世代が老人となり、その要求は数の力を帯びています。
現実にはその数の力によって世の中が変化してゆくでしょう。
しかし、数の力は時に局所的な変化を作り出してしまい、「バリアフリー」で見られるように、建物全体はバリアフリーでも、そこに至る道や交通機関はバリアフリーではない、という現象を引き起しかねません。
残念ながら既に作られた「標準の枠」に収まっている私の所属する世代は、そのデザインについての決定権を持っています。
きっとこれからもコストのなどの理由で、いまの老人世代が見過してきたようにユニバーサルデザインという考え方を無視する意見はあるでしょう。
ユニバーサルデザインの考え方を取り入れ、実行する理由があるとすれば、いま生きずらい環境にいる老人をみて決定権を持つ世代が想像力を働かせる以外にはないのではないでしょうか。
ほんの少しだけ、自分の生きやすい未来を考える事で、この観点を得ることはできそうに思えます。
日本では欧米の他者をいたわるキリスト教的な観点よりも、より自分自身の問題として問う事がより説得力を持つでしょう。
自分自身の問題、その中にも障碍者と呼ばれる人たちのいくらかの助けになるデザインがあり、それをふくらませる事で自然に対応できる課題が多くあると思います。
ユニバーサルデザインという考え方に思うこと
ここまで書く中で、何が「ユニバーサルデザイン」なのか、ということを感じています。
老人世代を考慮するだけで障碍者と呼ばれる人々の助けになる部分もあるでしょう。
けれど、より多くの人々の助けになるためには、もっと多くの配慮が必要そうです。
まずは車イスを移動手段として暮せる社会、次に視覚に不自由があっても暮せる社会、次に…、と考えても、そこには同時進行的に並列に解決できる問題も含まれています。
このように特定の問題を解決してゆくのではなく、様々な観点を導入し、お互いに相互作用することがユニバーサルデザインとなってゆくのだろうということです。
いままで当然と思っていたものについても、なぜそうなのか、という観点を持つ事がまずは必要に思われます。
地域毎のユニバサールデザイン
川崎、横浜での7年間の生活に終止符を打って田舎に引っ越してきて感じることですが、
建物や道路など都市のデザインは関東圏のそれと、大きな違いがないような印象を受けました。
例えばショッピングセンターの周りには屋根のない通路があって、駐車場と出入口を結ぶ道になっています。
もちろん雪が積ると通れないですし、吹雪を防ぐために屋根だけでなく壁があってしかるべきでしょう。
そして本を読み終えて、この雪深い、4月でも深夜の気温はマイナスになる、この地域に共通に適用できる雛型、ユニバーサルデザイン、があるのではないかと感じました。
いまの日本は物流や情報の均一化が進み、ファッションなどの消費行動の流行も均一化しているといわれています。
沖縄の購買パターンを分析して、夏物衣料の流行を予測するという会社もあるようです。
そんな流れの中で都市のデザインも均一化が進むのかもしれません。
しかし豪雪地域ではトタン屋根が実用的とされ、瓦屋根を嫌う雰囲気があるように、地域にあったデザインは必ずあるはずです。
その考えを広く家族構成や生活パターンといった文化的な背景も含めて広げていくと、着眼点ごとにデザインができてゆくと思います。
この考え方に違和感を感じるとすれば、それが障碍者と呼ばれる人々に対してアプローチしていないということかもしれません。
より多くの人に機会・手段を提供するのがユニバサールデザインの機能だとすれば間違いないはずですが、これまでのバリアフリーから発展してきた流れとは明らかに違うでしょう。
障碍者とは呼ばれない自分の手の届くところにユニバーサルデザインはあるのだと思います。
その考え方を少しずつ広げていくだけで、障碍者と呼ばれる人々も少しずつ巻き込んでいく事ができるはずです。
それこそがユニバーサルデザインなのでしょうけれど、現実には教育が重要でしょうね。
みんなが楽をしたいためエレベータに殺到するなら、最初からエレベータを複数設置するのが正解かもしれません。
しかし現実には、代替手段のない車イスの人を優先的に列の先頭に配置するといった工夫も当然バランスを取るために必要です。
こういう考え方を当然のマナーとするためには、教育が必要になります。
近所にあるハートビル法に準拠しているスーパーのデザイン
よく使う近所スーパーは、いわゆるハートビル法に準拠して作られた、というメッセージが掲げられています。
確かにエレベーターはあるし、天井は高い、通路は比較的ゆったりと作られてはいますが、2階に行くための階段は、横幅は5〜7mはありそうで、2階まで一直線、スカートの丈が短い人をみると心配してしまう作りになっています。
まぁよほど健康な人でも疲れてしまうし、踊り場がないのは落ちたら死ねますね…。
間違いなく杖をつく人はゆっくりでも登らない方が身の為という階段で、私はいつも手すりにつかまっています。
しかし手すりは階段の片側にしかありません。
階段の真ん中に柵のような手すりもないのです。
これでも国交省の「 建築物移動等円滑化基準チェックリスト」には準拠していると思います。
トイレの通路が狭いと思いましたが、これは新基準に合致していないのか、トイレまで120cm以上の通路が連続しているかどうかは出発点をどこに設定するかで解決したのかもしれません。
現在はハートビルを名乗れないかもしれませんが、作られた当時は間違いなく、陳列棚の間に車イスがすれ違えないような通路があっても、ハートビルと呼ばれた建造物であったはずです。
これはそのスーパーを糾弾したいわけではなくて、基準がある事による弊害のようなものがあると思います。
この基準が変化することで、ある時点ではハートビルだったものが、突然ハートビルと呼ばれないようになります。
そんな変化があっても万人に使い易い、使いにくい、という事実に変化はないはずです。
これはチェックリストを元にデザインではなく技術で解決してしまうことによる悲劇のような印象を受けました。
基準があることで、それを解決する責任がデザイナーからエンジニアに移ってしまうことはないでしょうか。
デザインがなくとも基準を満せばよいという考え方は、本来の趣旨を歪めてしまうはずです。
この基準を満し、かつその建物や地域の実情にあったデザインがあるはずだからです。
これからはエンジニアにデザイナーとしての役割を意識することが求められてゆくのかもしれません。
ソフトウェアのデザインとユニバーサルデザイン
アプリケーションの設計はエンジニアの仕事ですから、
ユニバーサルデザイン的な観点の導入について、テクニカルな問題として扱いがちになると思います。
特にWeb系でデザイナーというと、設計に携わるというよりも、見映えのファッションの部分を扱うのが実情だと思います。
アラン・ケイ先生がいうように、いまのパソコンは使いずらいという印象を強く持っています。
これまでの経験から人間は、あまりにも柔軟性でドキュメントの不備も克服できる機能を持っています。
その人間に依存した作りになっている部分が多くあり、人間をサポートする機械であることは間違いありませんが、使いやすいか、という点には疑問を持っています。
ユニバーサルデザインの観点がこれを簡単に解決するとは思いません。
しかし、すべては参加者の意識とデザインの問題なのだと思います。
エンジニアはフレームワークを構築したり、ライブラリを開発することで、手の届くところにある問題を解決してきました。
それは全体からみて、局所的な対応であったため、場当たり的な「バリアフリー」問題の解決策のように、問題のある側面のみを解決してきたのかもしれません。
開発者は開発者の観点からみえる問題を積極的に解決してきたということはできると思います。
現在のコンピュータは高機能で複雑の度合いを高めています。
もはや革命的な変更は難しいところにまで成熟の度合いは高まっているのかもしれません。
何らかのフレームワークの導入とその対応の強制ですらハードルは高いでしょう。
ユニバーサルデザインの考え方が広がることでエンジニアが開発側の立場や経済的インセンティブに加えて、万人に受け入れられるデザインという観点からも提案できること、またそれが受け入れられる環境の醸成が必要と感じています。
すべてはデザインの問題なのです。
ファッション以外のデザインの意味、意義について教えを乞う機会はあまりにも少ないですが。