2011/03/17

「不謹慎」を狩るのが流行っているみたい

プロがコンサートを開くといって「不謹慎」だと叩かれているような状況が報道されています。

そもそも「つつしみ」がない、不足している状態をみて、「それは不謹慎だ」などというわけですが、 「つつしみ」を内に秘めて行動した場合、あるいは言葉が足りていない場合には、それが相手に伝わらずに反発を招くことは十分に予想されます。

そういった場合には、返す刀で斬るのではなく、「誤解を与えたようですが、〜です。」などと冷静に対応したいものです。

インターネットや書籍など主に文字を使った表現では、相手の息遣いや表情、言葉の抑揚や体の動きといったコミュニケーションに必要な要素がかなり省かれた状態であることに常に留意するべきで、それがリテラシーを備えている状態といえるでしょう。

そもそも不謹慎な言葉が狩られている様をみて、厳しい生活を送っている人達は喜びもしないし、おもしろくもないと思います。

「不謹慎じゃないか」そういう指摘をする事は、自由に行なわれるべきです。 しかし、それを大義名分に刀を振るうのは間違いだと思います。

関西ウォーカーTVにみる「不謹慎」への反応

昨日、関西ウォーカーが震災時のボランティア活動について、専門家を招いて、この時期に何をするべきか、いつボランティアが必要になるのか、という話をしていました。

その放送の最後に「不謹慎」について言及し、関西方面のメディアが、かなり神経を使っている様子がみてとれます。

「買い占め」や関東方面への個人的な物資輸送は、物流を混乱させる要素になるので、被災地への一定の影響があるかもしれません。そういう行動は「つつしみ」を持てばいいのだと思います。

極端な例として、あまりに有名なアーティスト達がウッドストックみたいなコンサートを企画すれば、関東圏含めて大勢が移動することで輸送機関に影響があるかもしれません。

しかし「不謹慎」という理由は十分ではないように思えます。その機材の移動に使うバスを流用する事はできるかもしれませんが、多くの人が日常を取り戻して買い占めみたいな行動を抑制できるかもしれません。 これはバランスの問題です。

そんな風に個別に与える影響の可能性を考えつつ「つつしみ」を持って行動し、またその様子や経緯が読み聞きする相手に伝わることが必要なのでしょう。

けっきょく、みんな不安なだけ

そもそも文字ベースのコミュニケーションでは、思いが全て伝わらない事は、気がつくかどうか別にして、常に起っていることです。

「考える」という事が苦手な人達や、教条的な生活を良とする人達は、一律に派手な活動や言動を「不謹慎」という言葉で狩るという行動にでても、不思議ではありません。

そういった行動の背景に思いを馳せると、何かをしなきゃと不謹慎という印象を与えかねない発言をする人も、不謹慎を気にするアナウンサーも、不謹慎と言葉を狩る人達も、漠然とした不安感を抱えている様子が想像できます。

そして、その心の奥底にある気持ち、行動を引き起す衝動の源である不安感は、いま被災地にいる人達と共通の感情なのではないでしょうか。

非生産的な漠然とした不安感は解消するべき

もし自分が被災地周辺のお店に並んで、自分が買う事で後に続く人達が手にする物資が減っていく、そういった事を想像するのは被災地から遠く離れていても多くの人達が共有可能な感情なはずです。

ある側面からみれば良い/悪いと判断がつくかもしれませんが、何をするときも、感情を爆発させるのではなくて、抑制を効かせて「つつしみ」を持って行動する、それがいま求められていることだと思います。

「不謹慎」だという事象はきっと確かに存在するのでしょう。

けれどそれを指摘する人たち自身が「つつしみ」を持っているか、立ち止まって考えて欲しいと思います。

そういう抑制の効いた様をみて、あるいは後からその事実を知って、被災者の方々はきっとポジティブなメッセージを受け取るでしょう。

そして「不謹慎」にみえても日常を取り戻す事は不安感を解消するために必要なことなのです。 それが出来るところにいるのであれば、ぜひそうしてください。

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