2007/04/12

「気づき」ということば

電車で帰ってくるとき、女性週刊誌の中吊り広告に「気づき」という言葉があった。 セミナーに通っているときの会社の同期も、休みの日にかけてきた勧誘の電話で同じ言葉を使っていた。
この言葉に非常に抵抗を感じるのは、こういう経験が呼び起こされるからだろう。 それでもこういう違和感のある言葉がどうして他の人には抵抗なく使えるのかわからない。

この言葉自体は"はてなダイアリー"にはコンサルティング用語として登録されている。 調べた範囲では国語辞典に載っていなし、英辞郎で対応する英語もでてこなかった。 自称経営コンサルタントなあやしい人達が使ったとしたら、なんとなく自分の経験と中吊り広告の言葉がつながった気がした。

特定の組織の中で使われる閉じた専門用語は組織の結び付きを強めるために使う事ができるので、この種の専門用語は宗教団体が騒動を起こすと耳にする「マインドコントロール」の基本要素の1つになっている。
専門用語自体はコミュニケーションを円滑にするし、大きな会社では組織が違えば使う言葉の意味も事なって、意志の疏通が困難になる事になるのは自分の経験でもある。 結局は程度の問題でしかなくて、専門用語自体に罪はないんだけれど、「気づき」という言葉は、自分の中で最悪な単語の1つになっている。
そんな自分基準に照して、中吊り広告のコピーを考えた人は勇気があるなぁと思った。

さてさてニュースでは東大の入学式で総長から「常識を疑う確かな力を養ってほしい」という言葉があったと伝えている。
勉強ができるのに自分の考えを理屈ではなくて正しいものと信じているがために修正できない人をみる。 自分で見たから信じると言う人もいるけれど、脳が「見たと判断したもの」が「事実としてあったもの」である事を証明するのはとても難しい。
常識とか経験とかそんなものがどれほど上滑りであやういものなのか、いままでの家庭や学校での生活から実感をもって感じた事はなかったんじゃないかな。

きっとごく普通な幸せな人世を送っていて、いい大学に入ったというだけの事なんだろう。 いい大学に入った事はこれまでの自分の人生や生き方を肯定するための良い材料になるだろうから、疑うなんて事は思いもしない純粋なまっすぐな心を持った人間に成長するのかもしれない。

エリートと呼ばれるようになる人たちがそんな自分の幸せぶりに気づかない人たちの集りだとしたら、「少数精鋭の俺たちが主導しなければ」的な考え方が支配しているようにみえる政治や経済の状況っていやだなぁ。

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