2012/08/11

つめこみ教育からゆとり教育への転換で変わらなければいけなかったこと

いわゆる「ゆとり教育」は「つめこみ教育」からの反動として生まれたといわれています。 最近は多少の反省もあって学力低下を憂いて教科の内容は見直しが進められているらしい。

確かに、つめこみ教育自体には反対だけれど、それは落ちこぼれた場合の救済策がほとんどない事と、 学習塾や家庭教師などの学習環境による経済格差が学力に反映される可能性があるからです。

結論からいえば、正社員を20才前後で買って65才で退職金を付けてリリースするという制度を止めて、人材の流動性を高める事が必要だと考えています。そのためには労働者を解雇しやすくする仕組みがあって、その反面、労働者はより頻繁に雇用されて能力を示す機会を与えられる仕組みの構築が行なわれるべきだ、という内容になっています。

ゆとり教育でかわったこと

つめこみ教育は、6〜18才の期間限定でのスキル(知識・能力)獲得ゲーム(猶予期間付き)といえると思います。

最近は、経済力がある家庭は無駄にゲーム機を与えたり、子供を甘えさせたりする場合もあって、必ずしも環境の中で優位とはいえないし、教科の内容が簡単になれば、それなりに要求されるハードルが下がって子供の負担は軽減さえるかもしれません。

しかし、その本質を変えないままにゲームのルールを緩めてしまうと、その枠内でチート的行為を行なおうとするのは当然の帰結に思えます。 ルールがキツすぎるのが問題で、柔軟性を欠いたことでいろいろな問題を起した社会の反省が、ゆとり教育であったはずです。

ゆとり教育は「教科の時間・内容を減らし、経験重視型の教育方針」への転換だといわれています。 なにを経験させたいのかさっぱり分かりませんが、現実にはよりよい経験ができる学校の人気が出るといった学校間格差を生んだだけのように思えます。

この期間、日本の社会では正社員につけない人間は非正規雇用という位置付けを固定的に与えられる結果となり、よりおちこぼれは救済されない社会へと変貌を遂げました。

ゆとり教育においても、18才までにどれいくらいのスキルを身につけたかで判断がなされ、おちこぼれを救済するという結果にはつながっていないと思われます。

強いていうなら、ハードルが下がった事によって「(やらないけど)やればできるはず」と思い込む事が、より現実的になった、とはいえるのかもしれません。 「(やらないけど)やればできるはず」と思い込めれば、将来を悲観する事はなくなるのかもしれません。

社会で必要なのは理想と現実とのギャップを埋める能力

社会で働くというと、ルーチンワークで成り立つ単純労働もありますが、普通はそうやって作ったものを売る方法から考えなければいけないので、どんな仕事でも「現在達成できていない事」を「どうにかして達成させる能力」が求められる事になります。「空のケースがある状態」から「製品でケースが埋まった状態にする能力」ぐらいに考えれば、納得できるでしょうか。

就職活動というものは、「職がない状態」から「どうにかして職を得る能力」を示すものといえるかもしれません。

つまり、課題解決が基本的な仕事の単位と考えます。

以前は課題を解決するために「知っている人に聞けばいい」という状況が一般だったとすれば、いわゆる人脈が課題を解決する能力に等しかった時代もあったのかもしれません。

いまの社会は、いろいろ複雑で、とくにIT系では「課題を作って解決する能力」がないと、どんなにプログラミングが上手でも、他人の作ったライブラリの範囲から逃れる事ができなくて、その一生を下働きで終る事になるかもしれません。

プログラマーですがPHP以外の言語では仕事ができません、とかっていう信じられない状態が普通にあったりするわけです。

いままで書いてきたことは、環境要因もあるので、一概にその個人の能力のみを表現しているわけでもありませんが、それついて考慮するのは、ここの目的ではありません。

とにかく、社会で求められている能力というものは、18才までに習得するはずのスキルとは直接的には関係がないように思えるわけです。

つめこみ教育からの脱却で目指すべきだった社会の方向性

理想を「頑張った人が報われる」社会だとした場合に、一度はドロップアウトしても、後から十分なスキルを習得すれば、就職口があるようなケースが良いとされています。

これを勘違いして努力しなくても仕事がある状態が良いと思って、低賃金かつ単純労働な仕事をやたら誘致する自治体があったりするわけですが、そんな仕事は中国や東南アジアに移ってしまう

つまり常にその地域の特色を活かす必要があるんですが、そういう特色のある仕事をサポートするために、周辺に、単純労働的な仕事が存在するはずなのです。

核となる要素を作らずに、本来、その周辺にあるべきものを作っても、根付かずに終るのは目に見えて明かです。

ゆとり教育が本来目指すべきだったのは、教科の内容を減らす事自体が悪いとは思いませんが、課題を解決する能力の育成や、一度は落ちこぼれても救済可能な環境だと思います。

おちこぼれた人は、会社が準備した6畳一間のワンルームアパートに入って、毎日工場のどこかでその日限りの仕事をするような人材派遣会社に流れたりするわけで、中国や東南アジアからの勤勉な労働者に置き換えられる将来を憂う事になる可能性があります。

そういう最終的な出口に恐怖を感じるとすれば、つめこみ教育時代と何も変わっていないわけで、解決するべき問題は少なくとも教科内容の削減ではなかったと思います。そこは重要ではない。

人生を60年ぐらいのスパンで捉えて、各段階で一度はドロップアウトした人をどうやって再教育するのか、そういう意欲をどうやって持たせるのかが重要なはずです。

これは学校だけで解決するものでもないけれど、18才までの能力で判断することから、どんな年代、段階からでも社会参加できるような仕組みが一番良いもののはずです。

柔軟性を欠いたままの社会構造

一度、正社員として雇用されるとキャリアアップを除いて、なかなか会社を辞めるという事ができない環境があります。 また、基本的に会社は(正当な理由のハードルが高いため)リストラができず、お金を積んだり、単純に窓のない部屋に移動させるとかいう手法を使って、人員の整理を図る事になります。

何かがおかしいんですが、経済が好調な時代には表面化しなかっただけの矛盾を、「これで成功してきた」という間違った成功体験で正当化してしまう事象が発生しています。

ちなみに、主観的な体験を否定はしませんが、人間は脳の構造から、関連のない事象を結びつけて理解したり、本来みえていないものや聞いていないものを体験したと認識できる能力を持っていることもまた事実です。

話を戻すと、労働者の流動性と市場を作っていく事が肝要ではないでしょうか。

労働者も賃金が与えられる(べき)ものと思っているところがあるので、お互い様ですが、陰湿ないじめなしに解雇された方がすっきりするし、会社に20才からずっといる社員で占められる事がなくなれば、本来いうべき事をいう事もできるでしょう。

ただ現状を一気に解決する方法はないので、難しいのですが、少なくとも目指すべき方向性は政治家が示して、法律などのサポートを行なうべきです。

ゆとり教育が目的を達成していない理由

根本的な問題は、目指すべき方向性を誰も理解していない点にあります。あるいは人によって目標が違うというべきでしょうか。 ぼやんとした目標はあるんですが、ゆとり教育の成否が評価できない理由は、期間的な問題もありますが、目標がそもそもないので、何を指標とするのかから議論が始まるからだとも思います。

もっと柔軟な、人に優しい社会にするのだと思っていたのですが、年寄がシステムを変えてくれないので柔軟性はないままで、若くて優しい人たちが(無関心によって)残酷な社会を作っている様子が普通に怖いです。

例えば、教師は自分の給与が社会から与えられていると認識して、将来の雇用主を育てるために、自立して使える人材を作る事に、もっと真剣になるべきです。 そう考えれば、そのためには教科の時間も足りないし、18才までに年刻みで教える事の難しさが見えてくると思います。

そういった必要から社会を変えていく事が必要で、イデオロギーや教条的な思い込みを原動力とする変化はうまくいかないでしょう。

さいごに

社会に出て学んだ事は「現実とのギャップを埋めるために与えられた環境で全力を尽す」という事です。

この社会は不公正で、各人は、ハンディの付いたそれぞれ違うスタート地点から同じゴールを目指すマラソンをしているようなものです。

理想が与えられるべきものだなどという考えは、社会主義を通り越してカルト的な信仰です。 とはいえ、それを羨んでも何も良い事は起きません。

違いはあるし、各人は違う人生を歩いてきた事を認め合って、それぞれが違うスタート地点に立って協調して動く事ができなければ、より大きな仕事を達成する事はできません。

気に入らないからと、足をひっぱる事は全体を停滞させるだけで、より大きな問題を引き起しています。

排他的な群の文化では、この時代において「全滅 or (ひとときの)繁栄」となる事は自明に思えます。

基本的にこれらの柔軟性を欠いている原因は「恐怖心」です。 人間の可能性を潰して、萎縮させて低い能力しか発揮できない原因は、この恐怖心にあります。

学校でのいじめが問題になっていますが、いじめる側がいじめられる側にならないためには、当事者よりも周囲に徹底的に力を誇示する必要があって、それによってエスカレートする宿命を負っているように感じます。

つきつめていけば、この社会が克服しなければいけないのはこの恐怖心ですが、戦前からこの社会に影を落しているものでもあり、この事を認識できるかどうかから試されているように思えてなりません。

日本人が恐怖心から逃れるために作ってきた神話や伝承、社会基盤といった代償的行為を思えば、ストレートに現状を認識することはとても悲観的に思えます。

これを克服するためには、各個人がかなり分析的にこの社会や現代社会の有り様を捉える必要があると思うのですが、哲学のないゆとり教育やそれに続く教育改革がこれに寄与する事ができるのか、この観点ではかなり懐疑的です。

外部の目や、他人の意見に左右されたり、過去の経験や誰かに付いていけばいい、そんな程度の認識ではだめで、もっとあるべき論から議論ができなければいけないのですが、議論にならないのは教育のシステムにも原因があるのでしょう。

何をやっても、全体を包括するような哲学やゴールがはっきりしない、当事者に認識されない間はうまくいかないでしょう。日本のシステムの悪いところは、その必要性や目指すところを「聞くな、感じろ」と強制するところにもあるように思えます。

これまで暗黙のうちに語られなかった事を、シンプルに口に出して明示的に話すだけで、ずいぶん変わる気がするんですけどね。あまりにも黒い理由があり過ぎて口に出せないんでしょうか。でもそれはもっと大きな別の問題なんですよ。

Postscript: 書きながらフォーカスを失なった短文たち

なぜか地方の経済は地方公務員の収入で支えられているところがあります。 周り周っていくお金ですが、基本的には、その収入は公務員以外の産業から埋まれた税金で賄っているはずです。お札を刷れば別ですけれど。

なぜか地方経済というエコシステムの頂点に公務員があるのは食物連鎖的に異常だっていう認識が普通になかったりして、地方公務員が勝ち組みたいな受け止め方をされたりします。

日本はユーロ危機にある現代のギリシャみたいにはならないと思いますが、19世紀に勃興したポルトガルの大航海時代後みたいな位置付けにはなると思います。いまのポルトガルには失礼ですが、将来の日本の姿はここら辺じゃないでしょうか。

ここでは、ゆとり教育が失敗だとはいっていません。 柔軟な人材を育む事に成功している可能性はあります。

しかし、うまくいったとしても、その育んだ人材を受け入れる社会システムが変化しないのであれば、前段のみを変革して、問題のある後段をそのまま維持しようとしているシステムの歪みが次の問題になるでしょう。

学力の低下を持って余りあるメリットが享受できれば良いのですが、それも難しそうです。

震災の後もここまで必死になってバブル期に最大限機能した日本のシステムを維持しつづけようとするとは思いませんでした。 今度こそ変わるかなって思ったんですけどね。意識の問題ではありますが、残念です。

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