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2012/10/14

「アシュリー事件」を読んで

別記事にまとめてはいましたが、改めて本を入手して読み終えたのでまとめておく事にしました。

ちなみにamazonでは2012/10/5の時点で「通常2~4週間以内に発送 (予定日:10月21日 - 10月31日)」というメールが届いていましたが、繰り上がり、10/13の午前には手に取る事ができました。

実はこの後で郡山市内のジュンク堂に在庫があった事が分かったのですが、場所は医学一般書。 在庫があると分かってからも、しばらく探してしまいました。

この本のポイント

最初の入口は、この事件の表層から賛成、反対、というリクアションを持つだろうとは思いますが、 この本全体では、そこからさらに深く入り、その行動や事象の背景をできるだけ明かにしようという姿勢が明確になっています。

著者が自身のブログで「アシュリー事件を語る方に」のエントリとして、娘さんとの日常を綴っている点からも、賛成、反対という二元論的な反応ではなく、当事者にもっと寄り添う形での、事実をもっと知ってから考えて欲しいという姿勢が感じられ、この本から受ける印象と結びついていきます。

改めて本書を読んで…。自分との距離感

私は何も特別な経験を持っているわけではありません。 当事者でもないのに…、といわれても返す言葉は持っていません。

それでも、ここ最近住民税の減税を掲げて当選したどこぞの市長が障害者向け手当の削減や事業の縮小を模索しているのは事実で、障害者に限らず各種セーフティーネットも見直しが行なわれていく流れになっています。

当然この流れには私自身も居て、この生活が誰かの犠牲や誰かへの皺寄せの上に成り立っているというのは気持ちの良いものではありません。

しかし、その罪意識が軽くなるように、排他的な方向でコントロールを効かせるというのは本末転倒でしょう。

といった感じで、利己的な観点で考えても、アシュリー事件での一連の流れを正当化するのは難しいと感じます。

自身の生存を認めてもらうために大多数に属するというではなく、この世の中は誰でもそのメインストリームから外れる可能性を持っているわけで、マイノリティを包含する社会を作っていくというのが、自身のためでもあるというのが日本なら、まだ共有可能な考え方だろうと思います。

とはいえ、いじめが社会問題として今年は大きく取り上げられましたが、この問題が一定の解決がなされずに、ことなかれ的に放置されるようなら、かなり暗い先行きでしょう。

根っこの部分では、異質な者をターゲットにするいじめの構造と、ことなかれ的に全体としての問題への対応を積極的にとってこなかった責任者の行動は、この本を読んで感じる印象と重なるところがあると思います。

震災後も福島県内に居住しているというだけで、遠く離れた人達からどう思われているんだろうなぁ、と考えない事もないわけで、そんなに遠い問題でもないというのが全体を読んでの本当にざっくりとした感想です。

勘違いしていたこと

この本の中でも繰り返し取り上げられていますが、アシュリーの両親が一連の"療法"を行なうにあたって、迷いがなかったという点については、当然葛藤があっただろうと考えていました。

実際どうだったのかはわかりませんが、少なくとも両親の行動からも、この両親が迷いなく我が子に医療的な処置を依頼していた様子が想像できます。 それは異様ではあり、その行動を当然のものとして捉えるために、その両親像について、いくつか残酷な偏見かもしれない想像をめぐらせている自分が少し嫌にはなります。

それでも世の中にはいろんな主義、主張の人がいるわけで、やはりこの両親を非難するというのは間違っている方向として考えるべきでしょう。

でも、そういう風に感じる人は少なくて、賞賛するか、非難するかの選択をするのが普通かもしれません。 ずっと昔に祖父とマインドコントロール化にある某教団の幹部インタビューをテレビでみてて、誰でもこうなる可能性があるといったら、「そんなことはない。こいつは馬鹿なのだ。」といい返されて喧嘩になりそうになった事を思い出します。

今年は生活保護の話題でも弱者の義務というか、自己責任について、報道が多くあったと思います。 生活保護については批判をかわすために、家賃の行政による直接振り込みや、食費のチケット制という話題もありました。

パチンコをやりたいなら、すればいいとは思うんですけど、そうさせないために選択肢を奪う事が成長には繋がらないと思うんですよね。かといって効果的な方法も少ないように思えます。

手を差し延べることはできても、その手を握るかどうは相手次第でしょうし、その手がどういう人の手かによって、握りたいと思うかどうかの自由ぐらいはあるはずです。

そういう答えの出ない問題に望む時には、基礎となる考え方を固めないといけないと思うんですが、そういう訓練のためにも、この本を読んで考える事で、自分の中にあるはいろいろな思いを引き出してくれると思います。

一番怖いのは、この事件を通しての一連の行動がいろいろ検討して影響を考慮した上でとられたものであればまだ救いはありそうですが、無自覚に当然のものとして新たなアシュリーが造られてしまう事でしょう。

2012/10/11

「アシュリー事件」を閲覧して

児玉真美さんが書かれた「アシュリー事件」を読みました、ではなく閲覧しました。 ちゃんと読もうと、amazonやら紀伊国屋で入手しようと予約中ですが、どこも取り寄せ状態で、出版社に在庫があってもしばらく時間がかかりそうです。

いままでの経験からは最悪、入手不可も有り得るんじゃないかなと危惧しています。

2012年10月11日 追記:
10/11の時点では、アマゾンと紀伊国屋のオンラインストアで入手可能と情報が変更されています。 無事に入手できそうです。

さて入手できないなら図書館で内容を確認しようと思いつつ、Webで串刺し検索が出来るのは非常に便利なのですが、福島県内の公立図書館では郡山女子大と福島市立飯館分館、南相馬市立の3個所にしかありません。

pandaboardが5V2Aでは安定して動かないという情報もあったので確認がてら、pandaboardとc920を車に積みつつ、飯館までドライブがてらいってきました。

ここで自分の意見を表明しておくと、こういう処置には反対で、本人の意思が確認できない状態であったとしても、生命の危機がない限り、こういう不可逆的な対応をするべきではありません。

その理由は、この本の中で引用されているいくつかのアシュリーの親に否定的な意見に含まれています。

ただ、一点だけ、私には介護の経験がないし、そのご苦労は想像する事もできません。 この文書を書くにあたり、個人を非難する気はなく、アシュリーとその家族を心からいたわりたいと思います。

しかし、この問題の構造については考えてみる事にします。

この本を読んだ理由

最近は科学の生い立ちやら疑似科学の定義を求めて哲学寄りの本を読んだりしているので、その影響もあって興味を持ちました。

でもアシュリー事件そのものについての情報を知ったのは完全に偶然で、もうよく覚えていません。 たぶん脳死による臓器移植を尊厳死に広げるとかいう、そういう話について検索していて、児玉さんのブログがひっかかったのだと思います。

そして、この子供に対して行なわれた治療なのか判然としない処置について、その効果が本当にあるのかどうかという点を確認するために本を閲覧しに行きました。

父親が肯定的に捉えている様子から効果があるのかなと思いつつ、年齢を考慮すると、訴えているような苦痛が発生するずっと前に対応しようとしている様子が異常に思えました。 「効果がないんじゃないのかなぁ…」と思い、この本で確認したいと思いました。

この本から得られる情報

著者である児玉真美さんの考えが全面に出ているはずなのに、書かれている内容は裁判官や哲学者、社会学者などの発言などを元に、様々な意見が掲載されて、バランス良くまとめられています。

調べたかった、この治療が効果的だったのか、という点については、年齢からまだ効果が不明ところがあり、また、エストロゲンの大量投与などの処置に対する否定的な意見がいくつか掲載されていました。

元々が医療上の必要から選択された理由ではありませんから、否定的な意見に説得力があるのも当然かもしれません。

これから起こるかもしれない不安に対する過剰なリアクションが、この問題を異様にし、また引き立てているのだと思います。

閲覧を終えて

この本を眺めて、私は知的障害を持つ人間に対する基本的人権や尊厳をどの観点で扱うかという事が論点だと理解しました。

論理的に説明をつけて論を展開するのは、もうすでにこの本の中で様々なものが取り上げられています。

主観的には、この障害者や両親の立場に自分の気持ちを投影して、それぞれの立場で考える事になるんだと思います。 「(本人の苦痛や気持ちが分からないのに処置をされて)かわいそう」、「(世話をする親が)つらそう」、等々、どちらの立場から考えるかによって結論は分かれる可能性が大きい話題だとは思います。

これが本人意思の表明が明確に伝われば尊重しましょう、という事になるんでしょうけれど、知的障害があるというところで、本人の意思が不明なら保護者である親の意見をまずは尊重しましょうという意見も成立しそうには思えます。

ただ通常であれば本人が成人するまで、あるいは判断能力を持つまで待ち、本人の意思を確認する事になるわけですが、それが望めない例であるわけです。

意思があるのかどうか、少なくとも現在の知見では、かなり動物的本能に近い判断能力しか持っていないと考えられる子供をどのように尊重するのか、その状態からの回復の見込みがほぼないという状況であれば、親が子を思って行なうその対応を当然だと考える人もいるでしょう。

しかし考えを進めていくと、どこかに境界があるように思えます。 人間が年齢をかさねて過去には知的な活動をしていたものの、幼児のような状態になり、高度な判断ができないと判断されるようになる人もいます。

アシュリーの事例に適用された考えを使えば、保護する者の意向が尊重されるべき事例ではないでしょうか。 もちろんアシュリーと同じ処置は必要ないですが、問題は処置の内容ではなく、QOL向上のために非医療的な処置を行なう事に説得力があるかどうか、という事になります。

こういう処置が許されるのであれば、その延長線上には、保護者というより庇護する者の意思が優先されるべきだという事になるのだと思います。

将来は延命治療の代りに尊厳死を与えてあげたりするような親切が待っているのかもしれません。 しかしアシュリーのケースは延命やQOLの向上が述べられていますから、尊厳死はいいすぎでしょう。
むしろ、その反対に徹底した延命治療が行なわれると考えるべきです。

しかし、それは良いことでしょうか?

どちらにしても人間としての扱いではないと思います。 たしかに本人の意思を察知、判断する事は超常的なテレパシー能力でもない限り難しいでしょう。

かといって、権利団体が主張するような、親ではない第三者機関が判断するような法整備が行なわれても、確認のしようがないのですから、将来の訴訟を恐れて不可逆的な対応を取る事はないと思われます。 少なくとも積極的な処置をするインセンティブは持たないと考えるのが妥当でしょう。

であれば、痛みや苦痛という状態に至った時点で医療を行なうという事になり、消極的な対応だと捉える事もできます。

しかし、意思を持った人間であれば拒否するかもしれないような過剰な処置を行なうべきでしょうか。 状況が違うというかもしれませんが、それでも現時点では必要がない行為を行なう事に正当性はあるでしょうか。

この本を読んで感じた事は、必要性の証明がおそらくできない行為を行なった事。それは人体実験に近い行為であったこと。医師たちに患者本人を尊重する気持ちがなかったこと。 そして、そういう行為が必要だと考えつくほどに家族が疲弊している現実です。

この本にありますが、家族たちの継続的なケアと本人が家族を失なった後もケアを受けられるという希望を持てる社会を望むべきで、実現のために動くべきなのだと思います。

脳は自分の行為を論理的に整合性を取るように働きます。 場合によってはしてしまった自分の人格と行為の間のギャップを埋めるために、いろんな記憶や感情を捏造します。 この状態であれば家族は行為について論理的に閉じるように、第三者からは容認できないような内容だとしても、理屈を考えるでしょう。

別にIT企業幹部でなくても、自身が生きている間に我が子の将来が保障されない現実を変えられないと悟れば、お手軽な一連の行為を思いついて、実現に全力を注ぐのも理解はできます。

しかし医師たちは家族に流されずに客観的に行動するべきでした。 徹底して患者本人に寄り添って尊重するという原則がこの医師たちにあれば、自分たちの判断に余るこの申し立てについて、裁判所への確認が行なわれただろうと思います。 イギリスの事例はアメリカで認められてしまった(かのようにみえる)事例のため、将来の訴えを恐れて事態が進展したのだろうと思います。

徹底的に非難されるべきはこの医師たちのみでしょう。 それでも自死については、それを選択した理由は分かりませんが、残念な事だと思います。

根源的な性質を持つこの問題は、哲学的な人たちの好奇心をかきたてるでしょう。 しかし一般の人達は、その胸の中に生まれた感情をうまく整理する事ができずに、様々なリアクションを行なうのだと思います。

本質的に解決するべきは、どんな状態で生まれて、どんな状態になっても、人間らしくケアされるだろうという希望のある社会を実現することなのだと悟り、そして絶望して、希望を失いそうになります。

2012/06/29

リーダブルコードを読んでみて気になったこと

オライリー(O'Reilly)から出版されたリーダブルコードについてです。 ほとんどいいがかりみたいですが、読んで気になったところをメモしておきます。

これから文句みたいなことを書きますが、この本はいろいろな発見があって、Web専業といった特定の業務に特化していて、いろいろなシステムに触れる機会が少ないような方には特にお勧めです。

最近Androidアプリを作ってJavaばかり触っているので、特にこの観点から気になった点をまとめました。

「関数の戻り値にretvalを使うな」について

型のないいわゆるLLと呼ばれるようなスクリプト系言語を扱う場合には、tmp/retvalのような名称は使うべきではないと強く思います。

しかし型のある言語の場合には、メソッドの先頭で戻り値のオブジェクトを格納する変数を用意しておき、最後にreturn ret;とするのは悪い習慣だとは思いません。

問題なのはメソッドの戻り値になるオブジェクトを格納する変数を、メソッドの途中に宣言をする事です。 読み手にゴールを提示せずに書き始め、そのゴールを途中にそっと忍び込ませるような真似は、決してするべきではないと思います。

C言語のように全ての変数をメソッド/スコープの先頭で宣言するべきとは思いませんが、処理の全体に関連する変数、定数の宣言はメソッドの先頭で行ない、それが処理全体の主人公であるという見通しを読者に伝えるべきです。

  public String findUniqueNameFromIndex(int index) {
     String ret = "";
     ...
     return ret;
  }

すべてのメソッド定義でこのような形式に沿った記述をしていれば、その処理がやや冗長になっても途中でターゲットを見失わずに済みます。

処理の途中で使用する変数は、そのスコープにもっとも近い場所で宣言をすることで、読者にそのスコープに関連する事を強く印象づける事ができると考えています。

大切な事は、全ての記述を特定の形式に収める事で、読者の興味、関心を他に移さずにコードに集中させる事です。

Syntactic Sugarであるswitch文を排していない

読んだ限りではswitch文について言及している部分はありませんでした。 まぁこれは趣味な部分も含んでいるので、こうでなきゃいけないというコンセンサスは得られないと思います。

ただ、switch文は単一スコープの中に記述する形式になっているので、一度あるcase文の中で宣言した変数は、他の個所で使う事はできません。break文を忘れて、意図せず変数に代入が行なわれて気がつかずに特定の処理でバグが入るといった可能性があります。

一般にswitch文はif-else文で置き換えが可能で、スコープが明確に分かれているif-else文を使うのが個人的にはお勧めです。少なくともbreak文を抜かすような真似はif-else文ではできません。

まぁswitch文は便利ですし、組み込み系のプログラミングで8bitの入力を処理するのに255個のcase文があるコードを見た事もあるので、環境によって流儀はあると思いますが、あえてswitch文は止めようといっておきます。

まとめ

リーダブルコードは読者を意識したコーディングを行なうための、とても良いガイドになっていると思います。

昔から特定の言語を対象にした、「べき・べからず本」というのはありましたが、どうもTipsが命令的で柔軟性にやや欠けるような印象がありました。

リーダブルコードのテーマは昔から出版されている本と比較して、とても斬新というわけではありません。

しかし、押し付けようとせずに、プロ・アマ問わずに誰でも読める記述になっている事はお勧めのポイントとして、とてもとても高く評価しています。

この本は誰が読んでも参考になりますが、できれば10代で、この本を読んで、最初から読み手を意識したコーディングをする方が増える事を願っています。

最後に、深夜に書き始めたせいか、いつもどおり、そしていつもにも増して上から目線になってしまいました。 ごめんなさい。

おまけ:自分が書くコードはリーダブルか (小学生読書感想文調)

私は、ずっとこういう事をテーマにしているはずなのに、いまだに最初からリファクタリングが不要なコードを書く事ができていません。

これは小説家が何枚も原稿用紙を破るように、当たり前の事なんだと思ってきました。 でも、リーダブルコードを読んで、プロの人達はこんな事はしなくても経験を積めばリーダブルで高可用性なコードが最初から書けて、こんな素晴しい本まで書けるようになるんだと知りました。

私は以前に同じようなコードを書いた事がなければ、いろいろ設計らしき事をしてから作り始めても、一つのメソッドが100行くらいになってしまう事は、たまに起ります。

1つのスコープでそんなに長いコードを書いているので、tmpという変数名を使ってしまうと、後でtmp2のような変数名を使わなくてはいけなくなるので、結果として説明的な変数を使うようになります。

それから、処理の内容をできるだけ分割して、意味のある単位で外部のメソッドとして括り出して、その処理に責任を負うのに相応しいクラスに処理を移します。

そんな作業を何回も繰り返して、やっとそれなりに適当な粒度のメソッドに分割されたコードを作る事ができた、と思う事ができるようになります。

そして、いくつかの責務を負っているクラスを分割したくなります。 この衝動はどうしても抑える事ができないのですが、よくよく考えずにやってしまって、最終的にgit checkout -fをしなければいけなくなる時があります。

きっとプログラミングが仕事の人達は、最初から見通しをつけて空のメソッドをどんどん書いて、後から、その中に処理を書いていく事ができるんだと思います。何年も仕事をしていて、いまだにこんな事をしているのは自分だけに違いないと思うと情けないけれど、負けずに頑張っていきたいと思います。

この記事で取り上げた品々

2010/04/15

「共生のための技術哲学」を読んで

共生のための技術哲学 村田純一編」を読み終ったので、感想をまとめておこうと思います。

概要

この本は村田純一先生が企画・運営に携わり2006年に開かれた本の表題と同名のワークショップの成果をまとめたものです。

ワークショップでは「ユニバーサルデザイン」の考え方をベースに、様々な方々が自らのバックグラウンドにもとづいて講演されており、本書にはその講演録を元に書き直されたり、ワークショップを受けてその後に書かれたと思われる論文が収録されています。

そのため、前の講演内容を受けて説明を行なっている論文があったり、聴衆に呼びかけたり、読み易く編集されてはいますが、いくらかライブ感の残る内容になっています。

読み終えての感想

この本の前半に大きな位置を占める「社会構成主義」については、先日ブログにまとめて投稿しました。

全体を読み終えて思ったことは、私たちの周りには人間の持つ柔軟性に頼っている、本質的に使いずらい建築物や工業製品があふれているのではないか、ということでした。

この感想を持った理由は、おそらく私自身のバックグラウンドも多少は関係していると思います。

感想のベースになっている自分のバックグラウンド

私自身の技術的なバックグランドはネットワークセキュリティであったり、Gnomeアプリケーションの改良だったりしますが、仕事としてはシステムの運用経験が大きな位置を閉めています。

その業務は基本的に誰かが作ったものを引き受ける先である性質上、設計書や手順書などのドキュメントに大きく依存していました。 どのようなドキュメントであれば短時間に、間違いを起さず、必要な作業(計画、変更、確認、etc.)が行なえるのか、常に模索していたと、いま振り返って思います。

基本的にドキュメントというのは、書き手の持つ観点に依存しています。 良く考えられた印象を受けるドキュメントは複数の観点を持って書かれたものといえるでしょう。

しかし実際には、想定されるフローから外れた事象には対応できなかったり、当たり前と思われる前提は省かれていて、その内容は、所詮、書き手の知識・経験に大きく依存し、またそれを反映しただけのものに過ぎません。

そのために落とし所として、再起動などのスタートラインの敷き直しをするわけですが、それすらも全ての事象に対応できるわけではありません。 ガバナンスだ、標準化だ、といってみたところで基本的には開発者に細やかな配慮が求められ、最終的には運用担当者のスキル、という属人的なものに依存せざるを得ない性質を持っています。

そのため部分的にアウトソースしても、観点を見えないところに追いやっているだけで、考慮されていない観点は常に、より属人的なスキルの低い、下流に流れていくのが常でした。そしてより大きな問題として表面化し、場合によっては下流で受けた担当者単独のミスとして扱われることすらあるでしょう。

運用に限らず社会的に、この見落した、配慮の欠けた観点が下流に流れていく、最終的には利用者がツケを払うという構図があると感じています。 そのために法律といった形で、より上流で行き届いた配慮を行なうことになりますが、最大公約数的な対応となり必ずしも十分な対応にはならないでしょう。

最低限守らなければいけないルールを活かすためには、本来の趣旨を考え、それに沿って行動することが必要で、そうしなければ、最低限のルールに従うという投資に対して十分な見返りを得られないというのが個人的な見解です。

経済的に考えても、どうせやるなら意味のあるものにする、ルールは守ってこそのルール、だと思います。

「ユニバーサルデザイン」の普及について

本の中では「ユニバーサルデザイン」という言葉について違う表現で語られますが、より多くの人に多様な機会・方法を提供するという捉え方がとても気に入りました。

人間は生まれてから成長を続け、やがて老いていきます。 車イスに乗るぐらいのことは多くの人が、これから体験していくでしょう。 糖尿病になり失明する人も決っして少なくありません。 そういった自分に対して、これから起り得る、様々な局面の中で使い易いものを作るだけの話しに過ぎません。

もちろん理想的な成果物はコストなどの理由で作られないわけですが、本書の中ではユニバーサルデザインの考え方を、思想・哲学・運動・教育などの言葉で修飾することで、理解度の向上、社会的な圧力が生まれ、発展してゆくだろうという展望が語られています。

より多くの人が使いやすいものを求める、自分の使っているものが使いやすいかどうか、十分快適かどうか、自分が機械に身体を合わせていないか、十分に疑ってみる必要があります。

工業製品のレベルでは経済原則によって十分にユニバーサルデザインが普及するでしょう。 ただ、それよりも規模感の大きな建造物では、コストも大きくなり少し状況が違うかもしれません。

日本の風土

個人的には日本では、みんなが頑張って「標準的な枠」に収まろうとする活動が常にあって、その枠に収まれない人を援助をするという捉え方があるように感じています。 この枠に収まらないことで自らを恥しく感じるということもあるでしょう。

身近なレベルでは、成人男性に合わせた工業製品は小柄な女性には使いづらいという事は良くあることです。 枠を変化させなければ、その延長線上で、足腰の衰えた老人は次第に枠から外れていくのだろうと想像がつきます。

ユニバーサルデザインという考え方を教育や運動によって実現していくというのは自然な意見に聞こえますが、はたしてそうでしょうか? 意思決定に関わる全ての人がこれから老いていき、関わるものをデザインしているというのに、どうしてこの視点が欠落してしまうのでしょう。

将来の老いてゆく自分のために、ユニバーサルデザインという考え方を自然に身につける機会があると考えることはできないでしょうか。 もちろんこれは個人レベルでの道徳的、倫理的な感覚に依存しています。 最初のステップで教育は重要です。 しかし、そこからは自分自身の問題として受け止めることができるかどうか、それがより大きな課題だと思います。

若い人間を非難する言葉の中に、想像力の欠如という言葉をみますが、現在老人となった世代の想像力が欠如していたために、生きずらい環境を構築してしまったという事も言葉遊びとしてはできると思います。 もちろんそこには、個人レベルの想像力と世代全体を動かす想像力の違いがあるわけですけれども。

老人世代の復権

ある時代の多数派であった世代が老人となり、その要求は数の力を帯びています。 現実にはその数の力によって世の中が変化してゆくでしょう。

しかし、数の力は時に局所的な変化を作り出してしまい、「バリアフリー」で見られるように、建物全体はバリアフリーでも、そこに至る道や交通機関はバリアフリーではない、という現象を引き起しかねません。

残念ながら既に作られた「標準の枠」に収まっている私の所属する世代は、そのデザインについての決定権を持っています。 きっとこれからもコストのなどの理由で、いまの老人世代が見過してきたようにユニバーサルデザインという考え方を無視する意見はあるでしょう。

ユニバーサルデザインの考え方を取り入れ、実行する理由があるとすれば、いま生きずらい環境にいる老人をみて決定権を持つ世代が想像力を働かせる以外にはないのではないでしょうか。

ほんの少しだけ、自分の生きやすい未来を考える事で、この観点を得ることはできそうに思えます。 日本では欧米の他者をいたわるキリスト教的な観点よりも、より自分自身の問題として問う事がより説得力を持つでしょう。

自分自身の問題、その中にも障碍者と呼ばれる人たちのいくらかの助けになるデザインがあり、それをふくらませる事で自然に対応できる課題が多くあると思います。

ユニバーサルデザインという考え方に思うこと

ここまで書く中で、何が「ユニバーサルデザイン」なのか、ということを感じています。 老人世代を考慮するだけで障碍者と呼ばれる人々の助けになる部分もあるでしょう。 けれど、より多くの人々の助けになるためには、もっと多くの配慮が必要そうです。

まずは車イスを移動手段として暮せる社会、次に視覚に不自由があっても暮せる社会、次に…、と考えても、そこには同時進行的に並列に解決できる問題も含まれています。

このように特定の問題を解決してゆくのではなく、様々な観点を導入し、お互いに相互作用することがユニバーサルデザインとなってゆくのだろうということです。

いままで当然と思っていたものについても、なぜそうなのか、という観点を持つ事がまずは必要に思われます。

地域毎のユニバサールデザイン

川崎、横浜での7年間の生活に終止符を打って田舎に引っ越してきて感じることですが、 建物や道路など都市のデザインは関東圏のそれと、大きな違いがないような印象を受けました。

例えばショッピングセンターの周りには屋根のない通路があって、駐車場と出入口を結ぶ道になっています。 もちろん雪が積ると通れないですし、吹雪を防ぐために屋根だけでなく壁があってしかるべきでしょう。

そして本を読み終えて、この雪深い、4月でも深夜の気温はマイナスになる、この地域に共通に適用できる雛型、ユニバーサルデザイン、があるのではないかと感じました。

いまの日本は物流や情報の均一化が進み、ファッションなどの消費行動の流行も均一化しているといわれています。 沖縄の購買パターンを分析して、夏物衣料の流行を予測するという会社もあるようです。

そんな流れの中で都市のデザインも均一化が進むのかもしれません。 しかし豪雪地域ではトタン屋根が実用的とされ、瓦屋根を嫌う雰囲気があるように、地域にあったデザインは必ずあるはずです。

その考えを広く家族構成や生活パターンといった文化的な背景も含めて広げていくと、着眼点ごとにデザインができてゆくと思います。

この考え方に違和感を感じるとすれば、それが障碍者と呼ばれる人々に対してアプローチしていないということかもしれません。 より多くの人に機会・手段を提供するのがユニバサールデザインの機能だとすれば間違いないはずですが、これまでのバリアフリーから発展してきた流れとは明らかに違うでしょう。

障碍者とは呼ばれない自分の手の届くところにユニバーサルデザインはあるのだと思います。 その考え方を少しずつ広げていくだけで、障碍者と呼ばれる人々も少しずつ巻き込んでいく事ができるはずです。

それこそがユニバーサルデザインなのでしょうけれど、現実には教育が重要でしょうね。 みんなが楽をしたいためエレベータに殺到するなら、最初からエレベータを複数設置するのが正解かもしれません。 しかし現実には、代替手段のない車イスの人を優先的に列の先頭に配置するといった工夫も当然バランスを取るために必要です。 こういう考え方を当然のマナーとするためには、教育が必要になります。

近所にあるハートビル法に準拠しているスーパーのデザイン

よく使う近所スーパーは、いわゆるハートビル法に準拠して作られた、というメッセージが掲げられています。 確かにエレベーターはあるし、天井は高い、通路は比較的ゆったりと作られてはいますが、2階に行くための階段は、横幅は5〜7mはありそうで、2階まで一直線、スカートの丈が短い人をみると心配してしまう作りになっています。

まぁよほど健康な人でも疲れてしまうし、踊り場がないのは落ちたら死ねますね…。 間違いなく杖をつく人はゆっくりでも登らない方が身の為という階段で、私はいつも手すりにつかまっています。

しかし手すりは階段の片側にしかありません。 階段の真ん中に柵のような手すりもないのです。

これでも国交省の「 建築物移動等円滑化基準チェックリスト」には準拠していると思います。 トイレの通路が狭いと思いましたが、これは新基準に合致していないのか、トイレまで120cm以上の通路が連続しているかどうかは出発点をどこに設定するかで解決したのかもしれません。

現在はハートビルを名乗れないかもしれませんが、作られた当時は間違いなく、陳列棚の間に車イスがすれ違えないような通路があっても、ハートビルと呼ばれた建造物であったはずです。

これはそのスーパーを糾弾したいわけではなくて、基準がある事による弊害のようなものがあると思います。 この基準が変化することで、ある時点ではハートビルだったものが、突然ハートビルと呼ばれないようになります。

そんな変化があっても万人に使い易い、使いにくい、という事実に変化はないはずです。 これはチェックリストを元にデザインではなく技術で解決してしまうことによる悲劇のような印象を受けました。

基準があることで、それを解決する責任がデザイナーからエンジニアに移ってしまうことはないでしょうか。 デザインがなくとも基準を満せばよいという考え方は、本来の趣旨を歪めてしまうはずです。

この基準を満し、かつその建物や地域の実情にあったデザインがあるはずだからです。 これからはエンジニアにデザイナーとしての役割を意識することが求められてゆくのかもしれません。

ソフトウェアのデザインとユニバーサルデザイン

アプリケーションの設計はエンジニアの仕事ですから、 ユニバーサルデザイン的な観点の導入について、テクニカルな問題として扱いがちになると思います。

特にWeb系でデザイナーというと、設計に携わるというよりも、見映えのファッションの部分を扱うのが実情だと思います。

アラン・ケイ先生がいうように、いまのパソコンは使いずらいという印象を強く持っています。 これまでの経験から人間は、あまりにも柔軟性でドキュメントの不備も克服できる機能を持っています。 その人間に依存した作りになっている部分が多くあり、人間をサポートする機械であることは間違いありませんが、使いやすいか、という点には疑問を持っています。

ユニバーサルデザインの観点がこれを簡単に解決するとは思いません。 しかし、すべては参加者の意識とデザインの問題なのだと思います。

エンジニアはフレームワークを構築したり、ライブラリを開発することで、手の届くところにある問題を解決してきました。 それは全体からみて、局所的な対応であったため、場当たり的な「バリアフリー」問題の解決策のように、問題のある側面のみを解決してきたのかもしれません。

開発者は開発者の観点からみえる問題を積極的に解決してきたということはできると思います。 現在のコンピュータは高機能で複雑の度合いを高めています。 もはや革命的な変更は難しいところにまで成熟の度合いは高まっているのかもしれません。 何らかのフレームワークの導入とその対応の強制ですらハードルは高いでしょう。

ユニバーサルデザインの考え方が広がることでエンジニアが開発側の立場や経済的インセンティブに加えて、万人に受け入れられるデザインという観点からも提案できること、またそれが受け入れられる環境の醸成が必要と感じています。

すべてはデザインの問題なのです。 ファッション以外のデザインの意味、意義について教えを乞う機会はあまりにも少ないですが。

この記事で取り上げた品々

2010/04/11

予防原則の適切な運用

今日の午前中までで「 共生のための技術哲学 村田純一編」の第一章までをようやく読み終りました。 この本は国立新美術館でみつけた本で、ユニバーサルデザインについての話題に関連した論文が収められています。 ライブラリで途中まで読んだのですが難しくて読み切れなかったので、amazon経由で入手しました。

この第一章の論文に出てくるキーワードはいくつかありますが、その中の一つが「予防原則」でした。

第一章を読む 〜社会構成論と予防原則〜

「予防原則」については漠然と意味は想像できたのですが、ちゃんと調べてみるとwikipediaのリンク先になっている「 予防原則に関するウィングスプレッド会議/声明」というサイトに辿り着きました。

概ね意図するところは、次の2点に集約できるようです。

  • 企業、政府に対し、科学的な根拠がその時点で明確でなくとも、発生した事象から先行処置を講じる事を求める
  • 立証責任を行為者の側に移すこと

具体的には深刻な環境汚染などが発生した時点で、汚染源と考えられる物質の排出規制など(強制力のある対応)を講じるよう政府に求めるということを想定しているようです。

この論文では、その結論に至る過程で、極端にこの主張を利用することの懸念について述べられています。 懸念を持つ人達が極端に全ての行為を停止させることさえあるでしょうし、それを受けて(おそらく企業側が)予防原則によって、全てのイノベーションが停止してしまうという懸念があるという指摘もあります。

それで、どうするのか

日本で身近な例では、遺伝子組み換え大豆やトウモロコシがあるでしょう。 論文の著者はナノテクノロジーを例として取り上げています。

ここまでを読んで、予防原則に伴う懸念は合理的な説明のつくところでバランスを取れば良いよね、と考えていました。 なにしろ立証責任を請求人に置かなければ、無制限に嫌がらせのような申立を行なうインセンティブを与えたようなものになってしまいます。

しかしこの論文の前半の社会構成主義について説明なども読むと、そもそも説得が難しいかなり主観的な問題提起を出発点としているのですから、現実的に説得が可能なのかという疑問も湧きます。

双方の立場を考えれば、元々のあるべき姿から離れ、事業主は言い掛かりだと考え無視しようとし、申立人は事業そのものが環境に負荷を与えているから操業を止めるべしという考えを持っていても不思議ではありません。

この論文の結論としてはナノテクノロジーの諸技術のリスクを従来の化学物質のリスク評価を応用する事で、そのリスク分類に沿った対応(モニタリング、規制)を取ることで柔軟な対応が可能だとしています。 その解決方法自体は他分野のソリューションですが、それを導出するための論理展開には社会構成主義の観点が有効そうです。 ただし具体的なツールについては述べられていません。

とりあえずの感想

科学的な根拠と呼ばれるものも、その基準値の決定、あるいは決定方法は社会的、政治的な影響を受ける可能性を否定することができないでしょう。 少なくとも事業主はビジネスを継続させるために、最低限の根拠があれば、それ以上の影響に関する調査・研究を継続するインセンティブを持たないことになります。 その研究の先には現在の理論が否定され、ビジネスを継続することができなくなるという恐れを持っているといい換えることができそうです。

そういう意味では社会構成主義の観点には意味があると思います。 しかしこの観点だけでは分析はできそうですが、論文で行なわれているように他の分野の知識を導入することで実際の問題解決を行なう必要がありそうです。 この他分野の知識を導入するところで恣意的な選択が働く可能性があり、客観的に状況を捉える能力を前提として持つ必要がありそうです。

分析者が、自分は研究者でステークスホルダーではない、という主張をしてみたところで、それを証明することは難しそうなところに社会構成主義の落とし穴がありそうな気がします。

ソフトウェア技術の社会構成主義は応用が効きそう

ソフトウェア技術はその出自を考えると、自然法則の利用というよりは、社会や企業の論理が色濃く反映されているといえるのではないでしょうか。 問題を解決するために作成されるソフトウェアも、様々な制約の元に作成され、プログラミング言語やライブラリ・フレームワークの選定には設計側の意向が反映されるのではないでしょうか。

まだ社会構成主義をフレームワークとして知ったところで、その分析のためにどんなツールを持っているか理解しているわけではありません。 これからのリサーチ次第ですが、特にSOAを語る時に組織に分散している分断されたソリューションをまとめる意義や、そもそもソリューションが分断していること自体が間違っていると認識させるために(これは私の主観ですが…)説得力のある論旨を作成できる可能性には少し期待を持っています。

ステークスホルダー自身がフレームワークを適用することで、客観的な観点を手に入れることができれば良いんですけどね。 いまのところはあくまでも客観的な第三者の視点が必要そうで、その点に注目してもう少し勉強してみようと思います。

この記事で取り上げた品々

2010/04/08

デザイン思考という言葉

はじめに

しばらく前にいわきに日帰りで遊びにいった時に、駅前のビルに入っている市立図書館に入りました。 そこで中を歩いていたところ、たまたまデザイン論の本棚が目につきました。

その本棚にあった一冊が「 デザイン言語2.0」で、慶應義塾大学出版会が出している本ですが、時間があったので2時間ほどで全体に目を通してみました。 おそらく、この分野を知らない私のような人間にとって、価値があるのは前書きにあった奥出直人先生と脇田玲先生の文章と、自分の知っている領域の方が書かれた本文の論文一本だけかなと感じました。

読み終った後で心に残っていたのは次のような言葉でした。

序:デザイン思考とデザイン戦略 P.10

彼らの考えに従えば、「デザイン思考」とは、
1)観察対象に感情移入をして経験を拡大し、
2)一気に物事の本質を見抜き、
3)それを物語として語り、
4)プロトタイプを構築して検証し、
5)実際に人びとに使ってもらい、その有効性を検証する、
というプロセスそのものである。

序:「デザイン言語」のアップグレード P.24

知識は、理解の一部にすぎない。
本物の理解は、実際の経験によって得られる。
セイモア・パパート

どちらも両氏が作った言葉ではなく、本文を補強するために引用されている文章ですが、ソフトウェアに関わる人間には大切な言葉のように思えました。

ほかに興味深い論文もありましたが、とにかくこれが「デザイン思考」という言葉との最初の出会いでした。

国立新美術館にて

先日、以前働いていた会社の方からお花見に誘われて、のこのこと東京見物にいってきました。 到着した日はチェックインまで時間があったので、乃木坂にある国立新美術館に行きました。

以前、横浜で暮していたときには、あまり外に出る機会を作りませんでした。 その反動か田舎に引っ込んでからは東京に行く度に、いろいろ見て周るようになりました。

その国立新美術館の上にはライブラリが併設されていて、大抵は画集などの美術書を閲覧する人が利用するような雰囲気の良い場所です。 しかし、たまたまその奥に工業デザインの歴史や、デザイン論についての本が並んでいて気になる本をいくつか読んできました。

そこでみつけたのが、「 デザイン思考の道具箱 奥出直人著」と「 共生のための技術哲学 村田純一編」の2冊でした。 他にも気になる本は沢山あって、数は少なくてもポイントを抑えているすばらしいライブラリーだと思います。

閑話休題:図書館の役割

大学に行けば別ですが、地元の図書館だと、新書やハウツーといった実用的な本、その時々で必要とされる本、が中心に並んでいます。

限られた予算とニーズを考えればしょうがないと思いますが、デザイン論のような本はほんどなく、デザインの本棚には画集などが並んでいます。 画集も大切な資料ですが、全体的に資料的な図書の少ないところが残念です。

おそらく地元の図書館は、短期的な利益を求められる企業経営のようなものなのだと思います。 その弊害が長期的にみて所蔵価値の低い図書の収集という結果につながっているのでしょう。

とはいえ歴史関連の図書収集には力を入れているので、司書さんも割り切っているんだと思います。

「デザイン思考の道具箱」を読み始めて

さて、この本に限りませんが、とても良い観点から構成されているのに、その全体からなんとなく違和感を感じるときがあります。

うまく言葉にできないのですが、それは私がコンピュータと利用者のインタラクションではなく、プログラマーとコンピュータのインタラクションに、より注力しているせいなのではないかと思いました。

この「プログラマー」は"プログラムする人"という意味なのですが、私の頭の中では「利用者」とほぼ同等の位置付けです。

一般的にコンピュータの「利用者」と書かれた時のニュアンスは「消費者」に近いことが、この違和感の一因なんだろうと考えています。

本を読みながら、iPadにまつわる報道に触れるとコンピュータの利用者はますます消費者の側に近づいているなぁと感じます。 また同時に、日々の生活を楽にするような用途のためにコンピュータを使っていくことはできないだろうかという方向に考えを深めてしまいます。

おそらく私がしなければいけない事は、批判ではなくて利用者がコンピュータを少しは自分の側に引き寄せて、便利な道具として使えるようにするためのソフトウェアをプロトタイピングすることなのでしょう。

大人であれば知らないことが罪になる場合もあるでしょう。 それど同様にエンジニアであれば、批判に終始しソリューションの模索を怠ることは罪でしょうから。

そうはいっても革命的なものが必要ではないんですよね。 道具はもう手に入っているのだろうと思います。 普通のおじさまが認識できるデータ構造とフィルター的な可視化とデータ処理ができる環境を与えて、バリコンを回してインピーダンスを合わせる程度の作業で操作できれば。

結局はデザインの問題なんだろうと思います。

この記事で取り上げた品々

2009/09/07

小説「ヨコハマ買い出し紀行」を読んだ

小説版は原作をベースにしながらも、原作にとらわれずに編まれた作品です。 賛否両論ありますが、アルファさんの個性はそのままと感じました。 結局、それが一番大切な事だと思います。

これは、漫画もそうですが、読んだ感想をうまく表現できない作品の一つです。 漫画と同じような感想を持つ事ができたということは、原作の雰囲気を受け継いだ良い小説だという事なのでしょう。

あいかわらず作品の舞台はのっぺりとした平穏な世界観に満ちています。しかし、その奥にある繊細で美しいものに心が引き込まれてしまいます。 そういった描写は丁寧で、小説として楽しめる作品になっていると思いました。

原作の背景にある多くの謎は、そのままで良いのですよ。 受け手がいろいろ考えればいい、日本人が好む作品だと思います。

アルファさんの描写さえブレなければ、まだまだ、謎を別の方法で料理した物語を作る事はできるでしょう。 また違う書き手によるお話しを読んでみたいと思いました。

一気に読んで午後の時間が埋まってしまった。 まだ夕日が見えるあいだに外を歩きに行こうかな。

2009/07/31

「プログラマーのジレンマ」を読んで

チャンドラーの開発経過を取材したライターが描いたものだけれど、他文献の引用や比較をベースに第三者の視点が十分に活かされた良い本だったと思います。

読み終ってからも少しひっかかっている言葉があって、それはピータードラッカーの著書(チェンジ・リーダーの条件 - みずから変化をつくりだせ!)からの引用文でP.220にあります。

…しかし一流の職人や専門家には単に石を磨いたり、粗末な脚注を集めたりしているにすぎないにもかかわらず、何かを成し遂げていると思い込む危険がある。

それで元々のドラッカーの著書も買ってみて、いま読んでいるところです。 元々の文章はもう少し長いのですが、単純にひとりよがりな職人は危険だから注意しろという文脈ではなくて、組織の中で働く末端の人間であっても全体の方向性やその仕事が全体に与える影響について理解しなくてはならないという文脈の中で語られている言葉です。

このドラッカーの言葉自体はチャンドラーに対する戒めの言葉として適当とは思えないけれど、 もっと基本的なところでボディブローのように効いてきます。 自分自身の日々の活動に対して、俯瞰して、客観的に状況を観察できるようにならなければと痛感しました。

2009/06/23

「コンピュータが子どもの心を変える」を読んで

ジェーン・ハーリーさんが書かれた邦訳本で、原題は「Failure to Connect」というシンプルなものです。タイトルの通り、子どもの(主に心の)発達とコンピュータなどの電子メディアがどのような影響を与えるかについて書かれています。さらに、もしコンピュータを積極的に活用するとしたら、発達の段階に合せてどのように活用するべきかのアドバイスもまとめられています。

コンピュータの影響を述べた本には良いか悪いかの一面から捉えるものが多いように思いますが、この本はコンピュータは11歳未満の子どもにはあまり有効ではないだろうと述べながらも、大人が一緒に子どもを指導する事でポジティブな影響を与えられる可能性についても言及しています。 その一方で実際にコンピュータを活用している学校などを訪問した経験から、効果的な活用が非常に難しい事も指摘しています。

この中で子ども向けの教育的ソフトウェアは、そのソフトウェア作成者の能力を投影している事と、それ故に内包される限界を指摘しています。所詮可能な事はプログラムされたものに過ぎないというわけです。 コンピュータが大きな可能性を秘めている事は事実ですが、その可能性を引き出すためにはコンピュータを使わなければいけません。誰かが作ったプログラムをおとなしく使っているだけでは、そういった能力を身に付ける事はできないという事ではないでしょうか。

個人的な経験からもコンピュータを能力を高めるための道具として使うためには、積極的な態度でコンピュータを使う必要があると実感しています。 もしそうしなければ刹那的にコンピュータの前でWebやチャットをしながら時間を浪費してしまうでしょう。 子どもが独力でそういった安易な方向に流されずに、良き道具としてコンピュータを活用する事は難しいだろうという印象を持ちました。

この本は教育者や子どもを持つ大人が興味を持ちそうですが、幅広いリサーチに裏打ちされた内容から得るものは多くあると思います。広くコンピュータやデディアに関わる方なら読むべきでしょう。

2008/09/25

「さらば財務省!」を読んで

今度の本は似たタイトルだけれども、小泉、阿部政権の中に居た方が書かれた本です。 こちらは自身が働いていた小泉政権を肯定的に捉えていて「さらば外務省!」とは別の視点が得られておもしろかったです。そうはいっても手放しで賞賛しているわけでもなく、元官僚が官僚の省益を優先させる勝手さを書いている点は両方の本で共通しています。
それぞれでフォーカスしている部分が違うので、政権交代についての意見はまったく違いますが、背景にある動機は共通しているように見えるんですよね。 まぁ選挙でどっちが勝ったから良いというわけではなくて、何が争点になって、選挙後にどう変わっていくのかという点が明らかにならないといけないわけですが、そういう高いレベルで争われる選挙にはならないんでしょうね。

民主党は自民党の足元をすくう事しか考えていないように見えるし、官僚の独特な文化を変えていく必要があると思うのですが、そのために何をしてくれるのかというと、まだ付き合いの深い自民党の方が良いでしょうし。

自民v.s.民主という図式じゃなくて、いっかいみんなバラバラにして喫緊の問題について方向性の近い人達で固まってくれるとわかりやすいんですけどね。 そういう意味では何にもかも反対している民主党に魅力はないし、官僚出身の政治家が省益優先の文化を保護しかねない自民党にも魅力はないところをどう投票に反映したら良いんでしょう。

2008/09/24

「さらば外務省!」を読んで

ひさしぶりに本を読む時間が取れたので、勉強のためにAmazonで小泉政権時代を批判的に扱っていそうな本を注文した。今回の総裁選で記者から質問を受けて誰もまともに回答しなかった話題だったので気になりました。
元外務官僚で大使を努めた天木直人さんの書いた「さらば外務省!」というタイトルの本もその中の一冊です。サブタイトルには「私は小泉首相と売国官僚を許さない」とあってセンセーショナルだなぁと思いながらも読んでみました。

内容はいたって穏かで日本を代表する大使の仕事は、外務省に報告を上げても無視され、外務省からは現地政府に対して失礼と思える指示を実行することだとわかります。 なんか基本的なコミュニケーションが欠如している組織に日本の対外的な顔を任せていて大丈夫かなと心配してしまいます。

まぁ中東問題を含めて世界平和に日本は軍事力以外に貢献できるはずだし、小さい事でも何かしら貢献して欲しいと期待している方はこの本を読んでみると、そんな希望が簡単に打ち砕かれることでしょう。なんだか暗くなりますが、この本が出版された2003年から変っていて欲しいなぁと思います。

中にいた人が経験から実情をちゃんと説明した本という事では対外的な日本の仕事はどんなものなのか、タイトルでひかずに読んでみる事をお勧めします。

2007/10/20

立花さんの読書術本を読んでみる

立花隆さんの本をAmazonで探していて、目的の本のついでに買った「ぼくが読んだ面白い本・ダメな本 そしてぼくの大量読書術・驚異の速読術」(タイトル長すぎ…)を読みました。

いろいろなジャンルの本の寸評があって、今度どれかを読んでみようかと思いながら読んでいくのは楽しいものです。
以前本屋さんでみつけたものの買わなかった本についてもわりと前向きに書かれていて、時間があれば読んでみようかなと思いました。

ここまででも十分だけれど、前後にある序章と、懐しい『「捨てる!」技術』についての長めの章を読んで、買ってよかったなぁと思いました。
一部どうかなぁという部分もあったけれど、学生の頃に「〜技術」を読んで漠然と抱いた違和感 がみごとに書かれていて、すばらしかったです。

まぁ立花さんを持ち上げすぎな感じはしますが、ちゃんといろいろ考えている人が書いたものは自分と意見が合わない部分があったって、読む価値があるものになると思います。読み手としての技量が試されている気もしますが。

2007/10/13

28年前の事件のその後…

「追跡!28年前の『酒鬼薔薇』事件」のオビに魅かれて、奥野修司:「心にナイフをしのばせて」を読みました。この加害者が弁護士になっている事が同じくオビにあるけれど、加害者のその後を追ったわけではなくて、その被害者の家族を取材して、家族がどのように歩んできたのかを書いた本です。

著者もこの方法しかなかったといっているけれど、この本の構成は非常にユニークで、何かがよくまとまっているわけでもないけれど、読み終ってこういう方法しかなかった事がよくわかります。

これを読んでから、たまたまニコニコ動画で女子高生コンクリ殺人事件の加害者が出所した後のインタビューをみました。職を転々としたりして、結婚したもののあまりうまく行ってはいないようです。それでも悲惨な生活をしているようには見えず、更生しようとしている様が多少は感じられます。
更生とは何なのか、シンプルな疑問が生まれてなかなか良い回答がみつかりませんが。

どちらもいろんな意味で更生しているようです。弁護士の方は「ルールを守ればいいんでしょ(何しても)」という印象があるし、結婚した方は「がんばります…」といった感じだけれど。

少年法の精神は更生のチャンスを与えるという事で、それはすばらしいと思うけれど、国が責任をもって犯罪を犯した少年達のその後をトレースして比較研究して発表するべきだと思います。「更生のチャンスを」という人たちは、少年たちは「反省をする」ものだと信じているか、反省してくれるものと頼っているところがあるように思えて、本当に少年は更生したのか、更生とは何で、その目的に向うための施策が揃っているのか、実際のところよくわかっていないんじゃないかとさえ感じます。

この2つのストーリーを知った後では、現行制度の元では、真に必要な反省がなされたのかわからず、更生したといえるかどうかわからない事が問題だと感じました。

はたして心を壊してしまい、私達の社会が当然と考える、責任や反省を理解できない者を更生させるだけの能力が国の施設などにあるのでしょうか。私達が共通に持っていると信じている社会性を持っていない事を認めて、武士道でも宗教でも良いけれど、そういったベースを紹介する機会が必要なのだと思います。

何が価値観かはわからないし一つにはならないけれど、その一つとして新渡戸稲造の「武士道」かそれをベースにしたなにかを教科書にでもすればいいのかな。
いやいや一つの価値観で全体をまとめようとする事のおろかさは、いままでの歴史で散々証明されてきたのだから、選択肢を増やして様々なものを伝えて受け手が選択する事が重要でしょう。
いまの世の中は大学受験や就職に必要な知識が求められているようにみえて、教師も生徒も当然のようにそれらを与えて、吸収してという様が刹那的で寂しいですね

2007/01/16

青空文庫

国家の品格の中で、夏目漱石の「こころ」にでてくる先生と三島由紀夫の自殺に関係があるのかという一文があったので、ひさしぶりに「こころ」を読んでみようと思いました。
実家には小説もあるものの、取りに帰れる距離でもないので青空文庫から読む事にしました。

おもむきはないですが、便利な世の中になったものです。 しかし改めて読んでみて、自分はこの作品を理解できるというより染み入るように入ってくる歳になったのだと思いました。
なんともいえない気になります。

理解するのが難しいとはよく聞きましたが、昔読んだときはそう思わなかった。 けれど昔はどちらかというと読み進むのが苦痛に思えたものの、いまはすっかり魅せられたように読み進んでいます。
まぁ仕事に戻るのが嫌なだけなのかもしれませんが。

今日(?)の歩数 ;カッコ内は10分以上継続して歩いた「しっかり」モードの歩数

  • 01/15(月)の歩数: 12263歩(4253)

2007/01/14

キーワード:インセンティブ

年末年始の休暇を利用して読み進めていた本がだいたい終った。 他にもその前から積んである本はいくつかあるけれど、今年を初めるためにそれなりに必要かなと思ったものを選んで平行して読んだ。
今回のキーワードはインセンティブ。

「ヤバい経済学」とかで利己的な人間の行動原理として述べられている言葉です。 今回読んだ本はだいたいこんな感じ。

  • フラット化する世界(上下巻) - トーマス・フリードマン (原題: The World Is Flat - A Berief History of the Twenty-first Century)
  • 世界に格差をバラ撒いたグローバリズムを正す - ジョセフ・E・スティングリッツ (原題: Making Globalization Work)
  • 国家の品格 - 藤原正彦
  • ウサギはなぜ嘘を許せないのか? - マリアン・M・ジェニグス (原題: A BUSINESS TALK: A Story of Ethics, Choices, Success And a Very Large Rabbit)

上から本の厚い方から薄い方に並んでいますが、意図としては読んで内容が薄かったと思う順番に並べています。
満足度を読んだ時間で割ると、さらに差が出るという事ですね。 最初の3つがグローバリゼーションについて触れている点からすると最後の本は仲間外れですが、まぁいいでしょう。

The World Is Flat

トーマス・フリードマンの書いた本で、ビジネス書ですね。 ビジネス環境を変革する使命を持ったビジネスマンが自信を持って仕事ができるように、迷ったり、疑問を持っても走り続けられるように励ましの言葉が書かれている、そんな印象を持ちました。
そんなに悪い本ではないですが、おそらくインタビューを受けた人達の意図が反映されているのか、疑問に持った方がよさそう。 そんなに変な本ではないですが、括弧書きのインタビュー部分は事実として捉えて、その後のフリードマンの解釈は疑ってかかる、そんな読み方がお勧めです。

インタビュー部分は事実で、幅広く情報を集めているので価値はありますが、フリードマンの解釈はまぁ新興宗教の勧誘なみに重要な事実には意図的に触れずに、自分の主張に都合の良い体裁を整えているという印象を受けました。
「〜である」という部分はツッコみどころが満載のおもしろい本です。

でも(いまのところ?)トンデモ本ではないし、それなりに良い本でした。

MAKING GLOBALIZATION WORK

"The World Is Flat"の本のオビにも推薦の一言が載っているノーベル賞を受賞した経験のある経済学者スティングリッツ先生の著書です。
この本の中でフリードマンがいっている「フラット化する世界」は逆フラット化していると述べていて、でもフリードマンを全否定しているわけでもなく、オビに書かれていた推薦文はそれはそれで正しいんだと思います。

率直にまじめに格差是正のために何ができるのか、これから各国の首脳が取れて実効性のある政策について提言がされています。
人が動く動機はたいがい「インセンティブ」にあると見るその視点が徹底されていて、利己的な人間たちをどうやって誘導するか、相互にインセンティブのある提言となるように配慮されている様がみてとれます。

この本に書かれているような事ができるかどうかは、先進国とそのリーダーたちが利己的なインセンティブをある程度は捨てて、世界を正しい方向に導くんだという行動からインセンティブを受けられるかどうかにかかっているのかもしれません。
まぁ世界中の有権者が、スティングリッツ先生のいう通りにしないと投票しないっていう意思表示ができれば、世界がかわるかもしれない、そんな幸せな気持ちにさせてくれる一冊でした。

国家の品格

いうまでもなく日本のベストセラーですが、いま頃読みました。はやりの本は、旬のときにはあまり読まないのです。
スティングリッツ先生が非常に崇高な高みから、世界の情勢を憂いているのに比較すると、酔った日本の親父がうだうだいっている雰囲気が漂っていますが、読み応えはあるし、飾っていない分だけ読み易い本だと思います。

不思議な事に主張の一部はスティングリッツ先生が述べている事と重なっていたりします。 でも日本の田園風景を守るために必要な事は、日本人が武士道を忘れてしまったおかげで、国がどうのこうというのではないような気がします。

日本が正しい道に進むためには、不正を行いたくなるインセンティブを排除する事が必要なんでしょう。 関税を引き上げて国内産業を守った場合にも、賞味期限を切れた牛乳使ってみたり、日付付け替えたりする日本人がいるわけで、とんでもない農薬を使ったり不正な方法で収穫高が上がるような事をしたりするかもしれない。
いろいろな監視は国内、国外を問わず必要なんでしょう。

牛肉の場合は日本で行なえているようなトレーサビリティは米国にはないし、でもそれって日本みたいに高級肉として売れるからなんじゃないのかな。米国の大企業にとってはコストがあわないんじゃないのかな。 報道でも米国の小さな牧場は全頭検査でもいいから出荷させろって政府に言ったことが報道されていたけれど、大企業の意向で動くとすると、とても承諾できないだろうなぁ。全頭検査なんて。

日本では青森あたりで豚肉のトレーサビリィティを行なおうとして、税金を数億円飲み込んで倒産した第三セクターがあったはず。
その気はなかったのかもしれないけれど、ひょっとしてお金を支出する事が目的だったんじゃないの?と勘ぐりたくなるほどなぜ失敗したのかわからず、これだけお金を使って失敗ってことは、計画段階から失敗含みだったんじゃないかと思えるほど。

話しがそれましたが、武士道って素敵な響きですよね。 なんで不正しちゃいけないの?、なんで公金を失敗するとわかっているプロジェクトや無駄とわかっている出版物の購入に使うの? そりゃインセンティブがあるんだからしょうがない。 そんなしょうがいない事も「ならぬことはならぬことです」という一言で済むんですから。 これは武士道ではないか。まぁその頃の言葉という事で。

A Story of Ethics, Choices, Success, And a Very Large Rabbit

この本は一番薄くて、インセンティブに魅かれる人間たちを描いた本です。 日本人には武士道、欧米人にはうさぎというところでしょうか。

日本版監修者の山田真哉さんも書かれていましたが、アメリカでこういう本が書かれたという点がおもしろかったです。
というか勇気づけられました。

結局卑怯な事ってよくないわけなんでしょうね。世界中どこでも。 アメリカの場合は法律やスポーツのルールのように、合意が取れている事に反抗しない限りは卑怯とは呼ばれないんでしょう。
職場の後輩にも書かれていない事をやって「やっていいと思っていました」ってのがいますが、(いきなりレベルが落ちたな…)、自分の頭で考えて、胸に手を当てて、顔を上げて生きていけるような事を毎日しましょう、というわけです。

ただそれって人によって受け止め方が違うし、主観の問題だから、こういう本で啓蒙しないと、私の観点で卑怯だと思うような事をやっている人も胸を張って、顔を上げて、笑顔で毎日過せるモンスターのような人間たちに立ち向かえないわけです。
日本人にもたまにそういう人がいますね。 ほりえもんは卑怯だけれど、それで胸を張っていきていけるような強い心臓しているようにはみえません。 欧米にいるそういう人達のまねをしているような。 家族関係やその生い立ちに興味深い点があるという事では、斎藤学先生の研究対象に最適かなと思われます。

まとめ

どれもこれもおもしろい本でした。 いろいろ書いたけれど、買った事を後悔する本はなかったということは述べておきたいと思います。

さて世界中で武士道とはいわないけれど、こういう観点で合意が取れるのだったら、スティングリッツ先生のいう世界が実現するのかもしれません。
ひょっとすると共産主義も武士道を習得した国家、国民の元ではうまく機能するのかもしれない。

けれど日本人が武士道を忘れてしまったように、人間は簡単にインセンティブをみつけて転びますね。 卑怯だからといってそのインセンティブを見過していたら、誰かが飛び付くでしょう。
残念ですが、そういう事ができないように、卑怯な事を法律として制定していく…。 ああ、結局アメリカと同じように法律に書かれていない事ってやっていいのかなぁ。

いやいや、そういう事を「カッコわるい」と思って自粛するように、面倒な事でも「カッコいい」といって進んでするような人間がこれから必要ってことなんでしょう。
今日(?)の歩数 ;カッコ内は10分以上継続して歩いた「しっかり」モードの歩数

  • 01/14(日)の歩数: 9428歩(7660)
  • 01/13(土)の歩数: 4472歩(3919)